映画アマデウスといえば、モーツアルトの半生をアントニオ・サリエリの語らいを軸に描いていく、もともとはブロードウェイの舞台を映画化したものらしい。
完全にニワカの私がこの映画から何を感じたのか?ちょっとしたためておきます。
ネタバレが嫌な人は続きは見ないでくださいね。
映画アマデウスと私
もともとこの映画を私はリアルタイムでは観ていません。
自宅の近所に図書館がありまして、そこにこのモーツアルトのDVDが置いてあったんですね。で、数年前から事ある毎に借りてきては観ていました。数え切れないほどには観てきました。
ところが先日、ふら〜っとあてもなく入った古本屋さんで、メイキング映像と未公開シーンの収録されたディレクターズ・カット版がありましたので入手。改めてじっくり観たわけです。
撮影が行われたプラハでは、1989年まで共産党政権下ということもあって、そうとう苦労されたようです。しかし、その甲斐もあって映画の中に映される背景はどこを見ても中世の町並みの雰囲気を漂わせています。いや、知らんけど(笑)
オペラの上演シーンの撮影に使われたプラハのスタヴォフスケー劇場は、実際にモーツァルト自身の指揮で”ドン・ジョヴァンニ”の初演が行われた劇場だそうで、映像資料としての値打ちも持ち合わせている映画ということになります。
また、コンスタンツェを演じたエリザベス・ベリッジは直前までこの作品に携わる予定ではなかったことなどが、本人の語らいも含めて紹介されるなど、メイキング映像も大変興味深く楽しませて頂きました。
サリエリとモーツアルト
年老いたアントニオ・サリエリが首を切る…という衝撃的なシーンから始まるこの映画、そんなシーンから始まる理由は未だ判りませんw
とはいえ、この一件で収容された保養所らしき一室から語らいが始まります。この時のサリエリを演じた役者さん“F・マーリー・エイブラハム”さんがいい味を出しているなぁ…と。
牧師様に自作の曲を聴かせてもピンと来ず、モーツアルトの曲を奏でると牧師様が一緒に歌いだす。なんという皮肉(笑)。
この映画の中では、このサリエリがモーツアルトを殺害した…というテイで話が進められます。(史実は諸説あるようで、正直私は何が本当なのか判りません)
モーツアルトは幼少期からの名を轟かせ、反面サリエリは親の理解が得られずなかなか音楽の道に進めなかった。その頃から妬みは始まっていたの…と受け止められなくもない話の流れ。
幼少期の環境こそ恵まれなかったのでしょうが、その後、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世のお抱え作曲家として仕えておられるのだから、そりゃ相当なものだと思います。そんな相当な人が認めたモーツアルトだから、彼もまたやっぱりスゴイ人なんですよね。
そんな2人が出会い、物語はややこしくなっていく…と。
モーツアルトの音楽
映画の中で描かれているモーツアルトのキャラが実際の所どうだったのか?気になるところではありますが、映画の中ではかなり個性的なキャラクターで描かれています。
しかし、そんな独特な空気感を漂わせる人物が、サリエリが用意して皇帝が即席で練習した歓迎のマーチを1回聴いただけで覚えてしまい、さらにはアレンジを加えその場にいた人たちを驚かせます。幼少期から音楽家の父親レオポルト・モーツァルトから仕込まれた実力は相当のもの…ということなんでしょうね。
文句のない実力を皇帝に見せつけ、さっそくオペラの作曲を皇帝から依頼されます。
ここからトントン拍子に行かないのがモーツアルトの人生が切ない所。(もっと切ないのは幼少期に子供の遊びをしてこなかったことなのでしょうが)
その半面、この時点ですでに皇帝のお抱え作曲家となっていたサリエリは、上々の生活を送っていたように描かれています。そこまで上り詰めた後にモーツアルトがその土地へやってきた。
立場的にはサリエリのホームで、モーツアルトはアウェイといったところ。
で、モーツアルトのアウェイ感は、依頼されたオペラの上演が行われたあともなかなか拭えない。
初演終了後の舞台上、皇帝に「ブラボー!」と叫ばせておきながらも「新しい音楽だ」と言わしめたことが、逆に彼の首を締めてしまったのかな?と思います。フォーマットとしてはオーケストラを従え、歌手や役者、踊り子さん達を舞台に立たせ、型通りのオペラを演じたようになっていますが、音楽そのものがもうジャンルの違うものだったのかもしれません。
この同じ舞台上で国立歌劇場総監督のオルシーニ=ローゼンベルク伯爵に「音が多すぎる?」と言われたのは、まるでイングヴェイ・マルムスティーンが脚光を浴びた頃に似ているような気もします。
それか、サザンオールスターズがはじめてテレビに登場した頃とか(笑)
当時は何を歌っているのかわからない…なんて言われていたのに、気がつけば国民的バンドの様に受け止められるようになっています。イングヴェイにしても、登場直後はそうとう好き嫌いに苦しめられたようです。(私は彼の音楽に触れてからは好きになりましたのでピンときませんでしたw)しかし、そんな彼も気がつけば、自分のスタジオを持ち、フェラーリを何台も持てる程度の成功は収め、現在も作品を発表し続けています。(日本でもアルバム”ファイヤー・アンド・アイス”がオリコンチャートで自身初の初登場総合1位を獲得した。(首位から翌週に最多下落したアルバムとしても記録を残しているw))
その”気がつけば…”という期間を満たさずに人生を終えてしまったモーツアルトが不憫でなりません。
初演が終えた後も、モーツアルトのオペラは公開され続けますが、しばらくは鳴かず飛ばずの興行成績だったようです。
聴衆には認められないモーツアルトの音楽でしたが、サリエリだけはその魅力を見抜いていた。故に、その後、危機感からモーツアルトに対しての嫌がらせを企てるわけですが、その企ては決して殺害につながるものではなかったのです。(言っちゃったw)
後々の計画としては、モーツアルトに匿名で作曲をさせ、完成後、彼を殺害、そして自分の曲として葬式で演奏する…なんて計画を練るのですが、結局殺害方法が思いつけず行動は中途半端に。
つまり、映画の冒頭で新婦様に告白していたようなモーツアルトを殺害した…という事にはならない。とはいえ、その計画は一部遂行されていますから、作中のサリエリの心中にわだかまりが残ったのかもしれません。ゆえの冒頭の告白かと。
この殺害計画を思いつく前、モーツアルトに嫌がらせを始めていたサリエリですが、その頃モーツアルトがオペラについて教えを請うシーンがあります。この時、サリエリはモーツアルトに対して、聴衆に歩み寄る必要がある的なアドバイスをします。「君は聴衆を過大評価しすぎている。ラストを盛り上げないと彼らは拍手してくれない」と。
つまり聴衆が求めているフォーマットで音楽を作ることも作曲者の仕事だと。
実はこのシーン…映画”ショーシャンクの空に”の中で、刑務所内の図書館をリニューアルしようとしてアンドリュー・”アンディ”・デュフレーンが州議会から送ってもらった荷物の中に含まれていたフィガロの結婚の上演が打ち切られたところの会話なんですね。アンディに世界一美しいメロディと言わしめたフィガロの結婚も映画の中では9回の公演で打ち切られた…というのですからすごいお話です。(史実がどうかは知りませんw)
最近では、西野カナさんが”関ジャム 完全燃SHOW”で自身の作詞法を公開されて話題になっていましたが、より多くの人に聴いてもらえる最大公約数的な内容を求めるためのリサーチと考えれば、ひとつの方法としては賢いやり方なのかもしれません。
心を掴まれたファンにとっては、ガッカリさせられた話題だったのかもしれませんが、音楽以外のジャンルでは日常茶飯事で、音楽の中であってもこの映画の中でサリエリが語ったように昔から意識されていたことなのかもしれません。
今となっては世界中で愛されているモーツアルトの作品も、彼の存命のうちは世間に受け入れられなかった…という、なんとも信じがたいお話です。
まとめ
幼少の頃から音楽の教育を受け、人並み外れた実力を身に着けたが故、自分の納得のいく作品は凡庸な人々には理解されなかった。しかし、音楽に造詣の深いサリエリには伝わった。モーツアルトの音楽が素晴らしかったことは現代の受け入れられ方が物語っている。しかし、彼の音楽を理解するには当時の人々には難しすぎた。
新しいモノを創るのは、大変なことだ。そんな大変な思いをしてやっと生み出した作品が、誰にも認められなかった時の絶望と言ったら、凡庸な私には想像すら出来ない。
すんなり受け入れられる新しいもの…というと、すでにあるものの凡人には結び付けられないほど離れた何かと何かをくっつけて生み出したものが受け入れられやすいかもしれない。
飛び抜けて新しいものを生み出した時は、その新しいものとその時点で認知されている何かを結びつけて、受け入れられやすいものを先に作って、土壌を耕してから公表するのがいいのかもしれませんね。
モーツアルトの映画からどんな感想を導いてるんやwってですね。
でわでわ
P.S.
叶うなら映画アマデウスの中で上演されていた魔笛やフィガロの結婚を全編通して観せてもらいたいものです。英語だしね(笑)